15歳に戻った“修行の天才”~オウム・井上嘉浩元死刑囚~控訴審被告人質問から

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 2018年7月6日(金)オウム真理教教祖麻原彰晃こと松本智津夫と元教団幹部6人の死刑が執行されました。

 

 元幹部の1人が井上嘉浩君(享年48)です。彼は、地下鉄サリン事件ほか2件のVX襲撃事件、VX殺害事件、公証人役場事務長逮捕監禁致死事件などにかかわりました。一審では死刑が求刑されたものの、16歳のときに入信したことを理由に無期懲役判決を言い渡されました。しかし、二審では一審判決が破棄され、死刑判決に。2010年1月12日に死刑が確定しました。


 私はオウム事件が起こって2年ぐらい経ってから、実行犯たちの裁判を傍聴しはじめました。一連のオウム事件は、私の思考キャパをはるかに凌駕していました。地下鉄や住宅街にサリンを撒くと大量無差別テロ、敵対者を殺害、内部でのリンチのほか、毒ガス、薬物、武器の製造etc。かつて宗教団体でここまでの犯罪を起こしたところはあるでしょうか? しかも、そんな団体に自分と同じか年下の若者たちがたくさん入っていたのです。実行犯たちは私と同年代。おそらく自分とそれほど遠くない場所にいた人たちだと思います。その人たちがなぜ、あちら側に行ってしまったのか。江川紹子さん、佐木隆三さん、毎日新聞記者による傍聴記や、脱会者でつくる「カナリヤの会」の会報をむさぼるように読みました。それでは物足りなくなり、カナリヤの会のメンバーと交流する傍ら、彼らとともに実行犯たちの裁判に足を運びました。なお、交流がきっかけとなり、カナリヤの会のメンバーとともに「オウムをやめた私たち」(岩波書店)を制作しました。

 

 あれから15年以上が経ち、私の関心はオウムから別のテーマに移りました。でも、やはり心の奥底では気になっていて、たまに滝本太郎弁護士のブログをのぞいたり、やや日刊カルト新聞をチェックしたりしていました。
 そして、今回の処刑のニュースです。

 朝のワイドショーを見ていたとき、一報が入ったと記憶しています。

 一瞬、何が起こっているのかわかりませんでした。それから、おそらくテレビはオウム一色になったのでしょう。私は人と会う用事があったので、考える時間はありませんでした。

 夕方自宅に戻って、再びテレビや新聞、インターネットのニュースを読んで、本当に死刑が執行されたことを理解しました。

 それでも、現実感はわきませんでした。呆然とした悲しさというのか。頭が真っ白なまま、ただただ涙腺が刺激されているような状態でした。

 実際に目の前で姿を見て、肉声を聞いて、泣いている姿を見た、数時間同じ空間にいた人たちが、もうこの世にはいないのです。彼らと面会したり、支援した人たちと私は面識があり、「死刑は麻原一人。弟子は被害者。絶対死刑にしてはいけない」と署名活動を展開していたことを知っていました。「ああ、みんな悲しんでいるだろうな」。彼らの死をリアルに受け止められなかった代わりに、支援に当たっていた人たちが泣いている姿を想像して胸が詰まりました。
 その一方で、メディアやネットでは次から次へとニュースが流れてきます。自慢ではありませんが、私はけっこう疲れていても、とりあえずの情報を頭に入れておくことはできるタイプと思っていました。でも、今回ばかりは、活字に対して拒否感を覚えました。体が受け付けないのですね。簡単な、事実を伝えるニュースなら大丈夫なのですが、いわゆる「麻原が死刑になったが、オウムについて何一つ解明されていない」と、これまでオウムになんてまったく興味を持たなかったし、この先も持たないであろう三流知識人の評論なんて、まったく読む気になりませんでした。とにかく、評論のたぐいは一切読めないし、目を通すと反発ばかりしていました。

 

 そんな中、井上嘉浩君の被告人質問時のメモが出てきました。これは意外でした。傍聴していたことは覚えていたものの、どんな様子だったのか記憶はあいまいだったからです。ここまで詳細なメモを残していたことにも驚きました。


 このときの井上君は33歳でしたが、20代ぐらいに見えました。でも、若さは感じられず、疲労感をにじませていたように思えます。
 一審では検察側の切り札として、教祖はじめたくさんの被告人たちの公判に出廷し、オウムの非合法活動について証言してきた井上君。ここで、かなり無理をしていたのでしょうね。無理もありません。オウムの誤りに気付き、自身の犯罪や知っていることについて証言はしたものの、それはどこか優等生的で上滑りしていました。
 そんな井上君に対して、オウムと闘いながら脱会者を支援してきた滝本太郎弁護士、オウム真理教家族の会の代表・永岡弘行さんが面会。2人とも、かつて井上君が殺害を企てた「敵」でした。さらに、カルト問題に詳しい浅見定雄東北学院大学名誉教授も井上君の悩みを聞いたり、疑問に答えるなどして、面会を重ねました、私が傍聴したのは、まさにそのさなかだったのでしょう。
 前述した滝本弁護士は井上君の控訴審(2003年10月10日)で弁護側証人として出廷したとき、彼についてこんなふうに証言しています。

「脱会は確実にしている。現実感覚も戻ってきている。でも、独居房にずっといる。まだ、ポストマインドコントロールシンドロームにある。今後、不安定になるだろう。恐怖感も出てくるだろう。スッキリするには何年もかかるだろうなあ。まだ、麻原を乗り越えていない。素は15歳。まだまだ元の年齢には戻っていない。カルトに入信した場合、20歳で入信して5年経ってやめたとき、25歳になるのではなく15歳になる」
 そのうえで、死刑は反対として、次のように訴えました。
「今後も井上とは交流していく。それがオウムをつぶす力となる。ある中堅幹部の場合、現役信者に手紙を出したり、面会したりしてオウムの実態を伝えたことで、たくさんの人間がやめた。彼にはそれをやらせたい。それが責任を果たす1つの方法である」
 この証言を井上君は泣きながら聞いていました。

 その少年は48歳で生命を絶たれました。
 最後まで、自分のなした罪と向き合い、なぜ自分が麻原に従ってしまったのか、一連の事件について考察し、メディアの取材を受けるなどして、自分の知りうる限りのことを発信していました。それが彼の贖罪でした。本当にずっとずっと考えていたんだ。つらかっただろうなあ。だけど、それを受け止めてくれる人たちがいたからこそ、彼も一生懸命伝えようとしたのでしょう。

アレフに関しての分析。自作の詩。ずっと支援していた僧侶・平野喜之氏が発行する機関誌に掲載
https://drive.google.com/file/d/1cGVovKzBqoMel6-1l4EVGf91ESBUkKlv/view


 15歳に戻るまでにも、たくさんの人の支援がありました。ご両親、オウムと闘ってきた弁護士、カルト問題の専門家、オウム真理教に子どもが出家してしまった親御さんの会の代表などなど。実に多くの人の力で、オウム入信前の15歳に戻り、そこから成長していった。

 ここにある被告人質問のやりとりは、自分がどんなふうに変わったのか、彼が自身を振り返っての実感です。長いやり取りですが、弁護側主尋問だけでも読んでいただけると、彼が自分自身の変化をどうとらえているのか、わかると思います。
 人が魂を呪縛されて、そこから解放されるまでに、深い苦悩を味わいます。でも、多数の人の愛があれば、どうにか抜けることができるし、愛を与える側にもなる。それを伝えたいと思いました。

■2003年11月13日(木) 13:30 東京高裁725法廷

<注意>
・これは正式な裁判記録ではありません。私が手書きでメモした記録なので、語句等必ずしも正確ではありません。
・質問や回答の趣旨を損なわない範囲で加筆訂正するとともに、読みやすいように見出しをつけました。
・記録から15年近くが経過しているため、読み返していて意味の通らないところ、不明なところはすべて削除しました。

 

【弁護側主尋問】

 

●一審では検察官によく思われようとしていた

・事実関係について、あなたは原審(一審)で数多く証言をしてきました。主には49回公判になるが、それに付け加えることはありますか?
→ありません。
・最終陳述で「検察官にこびた」と証言していますね。
→はい。
・事実をまげて証言したということですか?
→それはありません。
・「問われるままに無理に答えた」というのはどういうことですか?
→検察官によく思われようと考えたということです。
・具体的には?
→例えばTさんの法廷で、Tさんが(戒律で禁止されているのに)ビールを飲んだという証言です。
・それは事実なのですか?
→はい。でも、そのあと、心情的には事件に直接関係ないことを答えることが必要なのかと考えました。

 

拘置所での生活に変化。宗教へ逃げていたことに気づいた

・一審の時の被告人質問1999年秋と今回の2003年秋と。拘置所での生活に変化はありますか?
→あります。
・一審の時はどんな生活でしたか?
→被害者の方を思う瞑想をしたり、宗教関係の本を読んでいました。一つには被害者の供養のため。もう一つには、麻原を乗り越えたいと思いのため。
・現在は瞑想をしていますか?
→していません。
→浅見先生(*)の2回目の証言がきっかけでした。自分がずれている事に気付いたのです。宗教から離れるのは苦しい。逃げていた、と考えました。でも、今、これに関わりのあるものはしていません。

浅見定雄東北学院大学名誉教授。専門は神学だが、長年カルト問題に携わり、井上元死刑囚と何度も面会。弁護側証人としても出廷した。

 

・宗教書はどんなものを読んでいましたか?
→禅に関するもの。麻原を乗り越えたいという思いと、自分の心の安定のために読みました。
・現在は?
→読んでいません。浅見先生の2回目の証言がきっかけで読まなくなりました。そういう本を読んでいたら、被害者の痛みはわからないと。自分は逃げていると思いました。
・つまり一時、本を読まなくなったと?
→一審の弁論からしばらくたったころです。
・再び読み始めたのは?
→新聞の広告がきっかけでした。「人間として、どうあるべきか」と書かれていました。「太公望」という本でした。宮城谷さんの書かれたもの。

 

・今、一日の大半は何をして過ごしていますか?
→読書です。
・被害者のことを考えることは?
→あります。日常の中や読書をしている時。本を読んでいてぐっとくるのです。例えば、池波正太郎大石内蔵助の話。おばあちゃんが亡くなる場面です。被害者の方が亡くなる場面と重なり、苦しくなった。涙をながすこともあるし、本を閉じることもあります。

 

・あなたのお母さんが証言されましたが、あなたは9.11(米国同時多発テロ)について考えたそうですね。
→事件のことは新聞で知りました。ビルが倒れる場面。逃げだそうとする人々。どれほどの苦痛かと思った。あと、遺族の人々の言葉。「会社に行っただけでなぜこんな目に遭わなければならないのか」という言葉。
・ハルマゲドンとテロがダブった?
→ダブりました。
・被害者のことは、どれくらいの頻度で思い出しますか?
→数えていません。毎日ではありません。3日に2回くらいでしょうか。昨日も松任谷由実の歌を聴いていて、無性に悲しくなりました。亡くなった人はもう歌も聴けないんだなと。

 

・今よく寝られますか?
→今、寝られる時もあるし、寝られない時もあります。
・一審の時は寝られましたか?
→よく寝られましたが、遺族の方の証言が続いた後から寝られなくなりました。今は、そのころに比べれば少し寝られるようになりました。本を読んで主人公の生きざまと自分とを比べ、何をやっていたのだろうと、やりきれない気持ちになります。それが頭を回ります。

 

・夢は見ますか?
→はい。多いのは麻原の夢。
・一審の66回公判で、麻原に追われて逃げる夢を見たと証言していますね?
→はい。でも、今は見る頻度は少なくなりました。しかも、内容も麻原から逃げ切れる夢が多くなりました。

 

・食事は食べられますか?
→半分程度しか食べられません。
・体重は変化した?
→一審の被告人質問の頃は、51~53キロ。直近の体重は、47~48キロ。
・食が細くなったのはなぜ?
→わかりません。
・食べる食品は何か変わりましたか?
→コーヒーやおかしを食べるようになりました。
・一審の時は食べなかった?
→一審の頃は、修行者として禁欲しなければと思い、食べなかった。でも、被害者の証言や浅見先生の証言を聞いて考えが変わりました。
・コーヒーやお菓子はおいしいですか?
→おいしいと感じました。

 

・お父さんの証言では、あなたは週刊誌を読むようになったそうですね。
→浅見先生と会ってから読むようになりました。一審の当時は、週刊誌は人を堕落させるものだと考えていました。
・どんな変化だと自分で思いますか?
→自分は世間知らずだったと思うようになりました。オウムに入る前の、中学生の頃の感覚が戻ってきました。
・週刊誌の記事では何が面白かった?
田中真紀子さんの発言や、官僚の税金の無駄使いなど。
・新聞は自費で読んでいるのですか?
→はい。一審の時はオウムの判決の記事を読んでいました。でも、今はスポーツ欄を読むようになりました。小学校の時、サッカーをやっていたので。
・ラジオは聴きますか?
→一審の時は、殆ど聞いていません。でも、今は聴きます。街の声、寄席。牧伸二が面白い。

 

・自分を変えようと意識した?
→特に意識はしていません。浅見先生とやりとりをしている中で、ラジオを聞いてみようかなと思いました。
・なぜ?
→自分でも分かりません。これをやるべきだ、とかは考えませんでした。
・一審の時に言われた片意地が取れてきた感じですか?
→はい。前の自分は、非常にいびつで偏って、世間知らずでした。

・浅見先生と会うのは楽しみですか?
→はい。会うのはうれしいです。裁判以外のところで、人として接してくださる。色々教えてくださるし、悩みも聞いてくれます。浅見先生から先に今日来た理由を言われる場合と、私から、こんな本を読んでいると話をする場合があります。申し訳ないくらい、人として声をかけてくれます。
・弁護人の接見とは違う?
→はい。

 

・今の読書はどんなものを?
山本周五郎の「ちゃん」。(ひとしきりあらすじを話す)考えるというか、泣きました。感じたというか。言葉になりませんが、皆が支え合って生きている。でも、自分はそういうものをグチャグチャにしました。当時どうしてこういう感覚が分からなかったのか。
・こういう感覚とは?
→宗教とかは関係ない。貧しくとも普通に生活している人の苦しみや喜び。
・オウムの時は、人として悟りを目指す、上を目指す、そういう事ばかりを考えていた?
→はい。なぜ私はこんなことをしたのだろう? (でも、普通の生活とは)当時、自分が嫌っていた裏切りや嘘など、それがあけすけなくある生活です。それでも喜びがあります。

 

・浅見さんから学んだこととは何?
→普通に感じること。かつては、それだけではないと思っていました。
・今、自分に足りないものは?
→社会経験。あくまでも本の中でですが、感じ始めています。
・今回、一審の被告人質問は読み直した? どう感じた?
→自分は素直ではなかった。自分を良く見せようとしていました。ハイ、イイエで答えれば良いのに、自分の言葉で言い直している。他にも、K先生(弁護人)から「社会で生きるということを実感している?」と聞かれたとき、「そう思う」と答えました。でも、それがどれほどのものだったかわからなかったのに。
・でも、そう答えることが当時としては精一杯だった?
→はい。

 

・前々回、浅見さんがあなたが一審で泣き出したと証言をしていたが、どうして泣いたの?
良寛の話で無性に悲しくなりました。修行によって供養しようとしていたが、それが逆に、修行することによって被害者の方が見えなくなっていきました。自分はずれていました。
・一審の69回公判で「泣きたいときに泣けるのは良いよね」と被害者から言われましたね?
→当時、「自分はつきつめられていない、どう言ったらよいか分からない」と言いました。訳が分からなくなっていました。
・自分は一生懸命なのに、なぜ?と
→はい。
・そうした悩んでいる中での浅見さんの証言だった?
→はい。修行は宗教に逃げていることだ、とわかりました。ズレている、とわかりました。
・ズレとは?
→修行することで痛みがわかるのではなく、修行するからこそ、痛みがからなくなる。
・今、あなたの中でズレをどうしようと思いますか?
→普通の人の感覚を学んでいこうと思います。

 

●罪の重さに耐えられなかった。被害者に手紙を書きたいが、書けない。

・あなたは一審のとき、被害者を供養するため自宅に祭壇をつくったそうですね。なぜつくったの?
→罪の重さに耐えられなかった。・・・今は、耐えていこうとしています。
・被害者の調書は読んだ?
→はい。「何時も娘のことを忘れたことはありません」「街で若い女性を見ると娘のことを思い出す」「夫の無念を思うと辛い」など書かれていました。
・被害者に対してどのようなことを考えていますか?
→言葉もありません。被害者の方からは「あなたは演技している」と言われました。良く見せようとしている自分がいました。
・調書には、あなたに求める償いについては書かれていた?
→「償いをどのように考えているか知りたい」と書かれていました。申し訳ないが、どうすればよいか、どうすれば償えるのかわかりません。
・一審の時は償いについてどのように考えていた?
→知っていることを証言する。手記を書いて印税を寄付する、そして瞑想の修行です。しかし、事実を明らかにすることは当たり前だから償いにはならない。手記については、出したいが、とても今は手に付かない。本当は自分のため、自分を楽にするためでした。

・75回公判では「自分は何もできなかった」と言ってますね?
→何もできなかったのです。
・今なお、宗教を離れては何もできない?
→ここに閉じこめられています。

 

・メッセージや被害者の方への手紙、手記は、どうして書かなくなったの?
→被害者の方の話を聞いて書けなくなりました。浅見先生の話はきっかけとなりました。書きたいという思いはありますが、心の底から自分の言葉で書きたいという感じになれません。
・「証言が演説のようだ」と被害者から言われましたね?
→手紙も書き直したい気持ちはあります。自分の中から書けるのだと思えるようになったら。具体的な償いを示したいです。

 

●かつて殺そうとした人たちと面会

滝本太郎弁護士(*)と面会しましたか?
→はい。面会したときは体が震えました。怖かったです。滝本弁護士は自分がVXで命を奪おうとした人。何とも言えないものがありました。

*オウムから敵視されていた滝本太郎弁護士を化学兵器VXを使って殺害しようと企てたが、未遂に終わった。

 

・滝本弁護士と会って楽になりましたか?
→はい。お詫びがしたかったので。
・永岡さん(*)と会った時は?
→泣いてしまいました。たまらなく申し訳なかったが、うれしくもありました。永岡さんにはお詫びしたかった、会いたかったです。

オウム真理教親の会の代表。滝本弁護士同様、VXを使って殺害を企てたが未遂に終わった。

 

●被害者に何もできない。気が狂いそう

・被害者には何をしてよいかわからない、何もできない毎日ですね?
→つらいです。
無期懲役ならば、そんな状態がずっと続きますね。
→気が狂いそうになります。でも、当然の罰、分かり始めています。
・一審の裁判長の説諭、覚えていますか?
→はい。「修行者としてではなく、一人の人間として、悩み、苦しみなさい」と。自分がどういう気持ちを持つとか持たないとかではなく、どうしようもない。

 

【検察側反対尋問】

・弁護側の尋問で一点わからない点があります。一審の最終陳述で、検察官にこびたというくだり。「ビール」について詳しく教えてください
→青山道場の4階を使っていたTさんが、冷蔵庫にビールを隠して、それを飲んでいました。
・大勢の人が君のために尽くしてくれることをどう受け止めていますか?
→申し訳ないです。本来ならば、私のような大罪を犯した人間に・・・

 

・Yが証人出廷したとき、君に好意的な証言をしてくれ、君は涙ぐんでいましたね。
→VX事件(*)で、私が実行できず、彼が実行をすることになりました。そのことで彼が罰を受けることになりました。申し訳ないという気持ちがあります。それでも、彼が私にやさしい気持ちを持っていると、その時思いました。
・Mさんを殺害しようとしたときもうまく実行できず、Yが実行をしました。その後、Hさん、永岡さんに対しても殺害を企てましたね。もし、君がMさんの時、実行をしていたら、Yはやらなかったということですか?
→はい。

*会社員Hさんをスパイとみなして殺害した事件。注射器にVXを詰め、ジョギングを装って被害者に近づいてVXをかけて殺害した。

 

・君は「修行の天才」と言われていましたね。君は信者を説得して出家させ、お布施を集めるのが得意との評価を受けていましたか?
→そのような活動をしていました。お布施については、金額は多かったです。
・どのような工夫をしていた?
→正確ではないが、僕は真剣でした。入信すれば幸せになれる、出家すれば救済になると(涙)本気で勧誘していました。
・君が実績を上げていた訳は?
→(無言)一つは東京本部長の肩書き。もう一つは、ヨーガを熱心にやっていたのがあると思います。
・Yは君のことを「光をあびる立場」と言っていたが意味は?
→裏(*)のワーク(*)ではなく、表(*)のワークに係わっていた。布教活動の前面に立つ役目だったということ。

*「ワーク」は教団内の仕事を指す。「裏」は非合法活動で他の信者には秘密にされた。「表」は合法的な仕事。

 

●自分はかっこつけていた、うぬぼれていた

・Yは君のことを「沢山の人から信頼されていた」と証言していました。聞いてうれしかった?
→たまらなく辛かったです。
・信頼を得ようと努力していた?
→意識して努力したことはありません。…言い直させてください。今から思えば思い当たります。かっこつけていました。自分は何でもできる、言える、修行者としてふるまえる、と。今から思えばですが。
・浅見先生に気付かされた?
→はい。
・かっこつけることを意識していた?
→師(*)になった時、自分のことが怖くなって、先輩に聞いたら、「師は商品だ。救済のためには(たくさんの人の前でかっこつけるのは)仕方ない」と言われた。当時は初めはとまどっていましたが、次第に振り返ることはなくなりました。信頼を得ようとしたことはありませんが。

*教団内のステージ。「師」は中間管理職に相当。

 

・得意だった?
→自分でうぬぼれていました。

・当時、部下と接する際気を付けていたことは?
→指針のようなものは自分の中にはありませでしたが、自然に身についていたかもしれません。信徒さんに気をつかうという中で身につけていったのかもしれないです。
・ヴァジラヤーナに対するものと、部下とのものは違う?
→はい。CHS(諜報省)では、ヴァジラヤーナ(*)の危険なものは自分でやりました。

*ヴァジラヤーナとは、救済のためなら武力行使や犯罪も厭わないというオウム独自の教え。ただし、信者の多くは「これは修行の進んだ人たちしかやれず、とても自分にはそんな資格はない」と思っていた。

 

・なぜ?
→忍びなかったからです。部下が捕まって、知らないふりはできなかった。
・オウムでの対人関係は?
→信徒の頃は、お互い救済活動の仲間。CHS(諜報省)ができてからは、部下が殆どいない状態。麻原は私自身へ直接指令してきました。
・オウムに入る前、中、高の時、対人関係で気を遣っていた?
→特にないです。

 

●「オウム以外の人は哀れ、救われない人々」と思っていた

・オウムの中で外の人たちに対してはどう思っていた? オウムから家族を取り戻そうとする人々に対してはどう思っていた?
→なぜ自分たちのやっていることを分かってくれないのだろう、と思っていました。
・オウムに敵対する人たちに対しては?
宗教法人の認証がとれなかった時、麻原の説法で「そういう障害を打ち破るのがヴァジラヤーナだ」と言われた。「(宗教法人の認証が取れないのは)我々にカルマ(業)があるからなのに(つまり我々のせいなのに)、なぜ打ち破るということになるのだろう?」と不思議に思いました。でも、次第に「グルの言われることだから」と、疑問を持たずに信じるようになった。また、教団内では基本的に自分のワークに集中しているから意識しませんでした。

 

・外の人は「凡夫」(修行をしていない一般人。信者以外の人)と思っていた?
→はい。「オウム以外の人は哀れ、救われない人々なのだろうな」という気持ちはありました。
・Oさんに手をかけた時(*)はどんなふうに思った?
→せめて、足から魂が抜けないように(*)と祈った。信じるとか信じないとかではなく、祈った。今から思えば、自分のために祈ったのだと思う。

*薬剤師殺害事件。元オウム信者の薬剤師(Oさん)が、教団総本部で治療を受けていた女性をその息子と親族たちとともに救出しようとして失敗し、麻原彰晃の指示で女性の息子らによって殺害された事件。

*オウムの教義では、体からエネルギーの各部分からエネルギーが出入りする。頭が一番上、足が一番下。足からエネルギーが出ると、修行が進んでいない状態。同様に、足から魂が出ると、来世は動物や地獄へ転生することになる。彼が言わんとしているのは、「オウムに対して悪業を働いたが、来世は悪いところに転生してほしくない」という意味。

 

・VX事件のHさんに対しては?
→本当にスパイなのか、と思った。でも、グルがスパイというのだから、自分の頭で考えてはいけない、と思った。
・Yは「井上が(VX入り)注射器を持ってきて、<これでピュッとやればいいんだ>とニコニコしていた。なぜなら自分でやらなくて良いから」と証言していましたね?
→ニコニコしていたつもりはないが、(自分で殺害行為をしなくて済んで)ホッとした気持ちはありました。
・Yは「嫌だった」と言っています。
→それはそう思います。
・そうすると、部下に対する心くばりはどこへ行ったのですか?
→考えていませんでした。麻原が「できなければ、誰々にやらせれば良い」と言っていた言葉にすがってしまいました。自分ではもうこれがギリギリ、限界なんだ、と。

 

●被害者遺族の反応について

・被害者の調書、読んだのはいつですか?
→8月。
・それ以外の被告達の調書については?
→なぜ、こんなことを言っているのだろう、というのはあった。記憶と違う、と。
・被害者の調書は何人くらい読んだ?
→わからないくらい。
・被害者は「もう証言したくない」「検察官とも会いたくない」と言っています。理解できる?
→理解できると言うことは思い上がりだと思いますが、「事件について思い出すのもいやだ」という気持ちはわかります。
・ご遺族のTさんは「何のために証言をしたのかわからない」と言っていましたね?
→わかります。ご遺族にしてみれば、死刑は当然というのは、人として当たり前だと思います。でも、敢えて言うと、被害者の方が判決をどこまで読んでいるのかわかりません。どこまで検察官も話をしたのか。ただ、私は被告人ですので。

 

地下鉄サリン事件について

地下鉄サリン事件の実行犯と運転手は誰が決めましたか?
→私にはわかりませんが、3月19日麻原が村井に指示を出しました。
・それぞれの指名は当然? それとも偶然? どう考えますか?
→当時はそういう考えはなかったです。今から思えば、それなりの理由がありました。村井が科学技術省なので正悟師になる人たちを、選んだと思います。林郁夫さんも正悟師になりました。運転手には、麻原に信頼されている人たちがなりました。
・科学技術省の人たちははじめてのヴァジラヤーナですか?
→(それぞれについて言及。殺害は初めてなどなど)
・彼らに比べてあなたは犯罪に数多く関与していますよね?
→実行という意味ではなく、現場に行ったという意味ならばそうです。

 

●生きているのは申し訳ないが、命を与えられてうれしいと思う

・「泣きたいときに泣けるのはいいよね」と証言したのは誰?
→ご遺族のNさんです。私は今、悩むことができます。でも、亡くなった人は、本を読めない、食べられない、考えられない。どうしようもない。どげんしょうもない、と。私が生きていることが申し訳ないです。
・死刑を求刑されたときはどう思った?
→当然、されるだろうと思いました。
・取調の時の検察官の言葉を「大丈夫だよ、死刑にしないよ」という意味で理解しましたか?
→はい。
・原審では死刑ではなく、無期懲役になりましたよね。
→命を与えられてうれしかったです。

 

 

【裁判官補充尋問】
・一審の頃、禅宗の本の前にチベット密教の本を読んだと言いましたね?
→はい。
チベット仏教から禅宗へと移ったのはなぜ?
→ある文献にチベット密教禅宗と結びついていると書いてあったからです。
・なぜやめたの?
→逃げている訳にはいかないと思いました。そういう事をしている場合ではない、と思いました。
・オウムについても考えましたか?
→考えました。グルについて、全く違うと思いました。救済についても、チベット密教は布教活動をしません。しかし、オウムは自分からしていた。
・瞑想はどんなことをしていた?
→仏像、座禅、瞑想。
・オウムとは違う形?
→はい。手の組み方とか、たまたま読んでいる本に書かれているものを取り入れました。オウムの時は、形が少しずつ変化していった。その変化の一部と同じ形だった。浅見先生に言われて気付きました。
・主尋問では、9.11とハルマゲドンが重なって怖いと言いましたね。ハルマゲドンに恐怖を覚えるというのはオウムから抜け切れていないということですか?
→それは違います。オウムの言うハルマゲドンは全面核戦争、そういうものではありません。(早口で、てぶりを交え、あわてた様子だった)
・では、恐ろしいとはどういうこと?
→はい。大きな事件を起こしてしまった。9.11にも影響を及ぼしたのではないか、ということです。被害者が叫ぶ姿とか。
・でも、なぜハルマゲドンと言ったの? オウムの教義の一つ、ハルマゲドンから抜け切れていないのでは?
→弁護人の質問は知らなかった。(*答えになっていないがメモにはこのまま)

―閉廷

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