牛久で出会った外国人─マロン(28歳・フィリピン)

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■今からでも遅くない、うんこドリルで漢字を覚えようよ 

*昨年FBにアップした投稿ですが、こちらに移しました。

 

昨日(19日 )、牛久の入国管理センターを訪問、収容されている外国人と面会。ここにいるのは国外退去処分を受けている外国人たちだ。

この国は弱者にとって、とてつもなく過酷な場所であることを思い知らされた一日だった。もちろん、アベが総理になるはるか以前から。

 

 フィリピン人の28歳の青年マロンはマニラで生まれ、13歳のとき母親の再婚によって来日した。彼を生んでまもなく母親は日本へ渡り、日本人の男性との間に3人の子どもを産む。彼がマニラから呼び寄せられたのは、母親が男性と入籍し、とりあえずは家族として一緒に住む態勢が整ったからだろう。

 再婚相手の仕事は解体業、母親は夜スナックで働いていた。

  日本にやってきた彼は、当然のことながら言葉もわからず、友達もいない。学校には行かず、幼い弟3人の面倒を見なければならなかった。父は朝から仕事、母は夜遅く帰ってくるせいか、昼間は寝ている。弟たちのオムツを代えたり、ミルクをつくったり、遊んであげたり、時には母の代わりに家事をしながら、3年余りを過ごす。

 15歳になったとき、地元の外国人向けの無料の日本語教室に1年間通って、言葉を覚えた。そして、父親の解体業を手伝うようになったが、長くは続かなかった。同年代の不良仲間とつるむようになり、少年院へ。2年後に出所した。

 日本の義務教育を終えていない少年院上がり。しかも、日本語も不十分。これでは、まともな職にありつけるはずがない。おそらく母親のつてだろうが、フィリピンパブの呼び込みをやることになった。こうして数年は呼び込みをやったが、店は閉店することになり、無職になってしまった。

  当時付き合っている女性がいて、彼女との間には子どももいた。赤ちゃんのミルク代も事欠く中、周囲に借金を申し込む。友人の1人から借りたお金が命取りになった。友人は盗んだ車を売った金を彼に渡したのだ。お金の出所については「リサイクルする車を売ったんだ」とウソをついて。

  友人が逮捕されると、捜査は彼にも及んだ。「知らない」と主張しても、警察が聞くはずもない。彼は友人と共謀して窃盗を働いたことになり、逮捕、起訴され有罪になり、3年間服役。出所後、国外退去処分となり、入国管理センターに収用されたのだった。

  彼は13歳から28歳まで日本で暮らし、フィリピンへは一度も帰っていない。すでに言葉も忘れてしまったし、生活習慣もわからない。今さら、フィリピンへ帰れといわれても、どうやって暮らしていけばいいのか。まともに生活できる見込みはまったくない。

 

 「日本に来たとき、本当にさびしかった。言葉もわからないし、友達もいなかった」

いやいやながらもたまには勉強して、友達と冗談ばかり言い合って、アイドルに夢中になる。そんな、ごく当たり前の子どもとしての生活は奪われた。家庭ではネグレクト状態に置かれ、言葉も覚えられなかった。親に甘えたい年頃なのに、大人の役割を担わされたアダルトチルドレン。明らかな虐待環境にあったのに、誰も彼を助けられなかった。

 

 彼が越してきたとき、地元の自治体から家庭へ働きかけがあったのか。

もし、彼が学校に通っていないことを自治体が把握していたら、何か手を打てたのではないかと思う。

 

 家庭という密室に閉じ込められ、生きるために必要な力がないまま、突然社会に放り出される。そして、今度は「邪魔だ、出て行け」とばかりに日本から追い出されようとしている。

 

 それでも、人って簡単に壊れないのだと思う。

  服役中に母親は死亡、母親の再婚相手や弟3人とは連絡を取っていない。しかし、恋人と2人の子どもとは月に1度面会にやってくるし、電話で話すのが楽しみだという。

  弁護士も探すことができたので、国外退去処分取り消しの裁判を起こすことになった。

 「彼女と子どものために、がんばりたい。もう悪いことはしない」

 たどたどしい日本語だけど、しっかりと語る。

 

 これが日本だ。

 だけど、冷酷な仕打ちに怒り、一緒に涙を流す人間はたくさんいるよ。

  裁判、がんばろう。

  今度こそ、人生やり直そう。

*その後、彼と何回か面会し、日本語は平仮名、カタカナは読めるが、漢字は小学校3年生程度しか習っていなかったのことがわかりました。やはり漢字は難しいとのこと。でも、1つ1つ意味があるので、それと一緒に覚えたと語っていました。というわけで、あのうんこドリルを差し入れてきました。覚えてくれればいいな。